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日常茶飯事とお仕事と

教育、指導は気持ちではなくまずは「理論」と「実践」で

ちょっととある人と研修やら教育について話す場があったのですが……こちらの方針や指針、いろいろと指導側の不備や問題を懸念として伝えたところ……

(指導側の)失敗は仕方ないと思います。
大事なのは教えられる側の活躍を願う気持ちです。

というお返事をもらった……。違うと思う。

気持ちや気合いは必要です。これは必要です。気持ちがこもってない行為は相手に伝わりづらいし、明らかに気持ちや真剣度が足りないと、相手はこちらの意見を「積極的に聞かない(無視する)」ということにもなりかねません。しかし、気持ちや気合いのベースになるものとして、まずは「きちんとした理論」と「理論に基づいた実践」があって、その上に気持ちや気合いといった精神的なレイヤーが乗っかる。これが正しい姿だと思います。

この下地である教育や研修といったものに関する理論。たとえば「こうだから、こうする」という明確な行動や指導の論拠、理由を持つこと。そして、教える側自身がそれを実践しており、また、その結果や経験をもって相手に教える。こうした事がなければ、いくら気持ちを込めても、気合いを入れても正しい選択や指導が出来るとは限りません。もちろん、たまたま気持ちを込めてとった行動が教育的観点から「アタリ」であることもあるでしょう。気合いを入れたら上手くいくことだってあるでしょう。しかしそれは運によるもの。運に従って行動するのは企業などに於ける活動とはほど遠いものです。ギャンブルでしかありません。仕事として行う行為にランダム性は不要です。再現可能で何度やっても同じ品質のアウトプットが出る。これが「品質を伴う仕事の成果物」です。

なので、きちんとした理論についての話をすっ飛ばして「気持ちが第一」と唱える人は、仕事としてやるべきことを放棄し、ギャンブルとしての教育、いわば「教育ガチャ」のようなものを引いているのと同じだと考えます。気持ちを込めてガチャを引こう……いい新人が出た!……コイツは駄目だった!……。そんなことをやられたらたまったものではありません。また、教育者だって自身の教育や経験蓄積というフェイズは必要でしょうけれど、その全てを「新人など若手の犠牲に依存する」のはあまりに酷い仕打ちです。まずは自身の時間とコストを費やして基礎をきちんと学び、計画を立て、実践と振り返りをもってなるべく対象に被害を与えないようにしつつ進む。この慎重さが必要かと……。

とりあえずこの話をした相手を自分が変える必要は無いと思うので、話した相手については放置します。この人の教育を自分が担当するわけじゃ無い。ただ、自分が教えるべくして教える相手には、自分が何故それを伝えるのか、何故そうなのかをきちんと説明できるようにした状態で伝達したいな、と改めて感じました。

ちょっと……相手にあまりにガッカリしたので忘れないように書いておきます。

総合教育技術 2020年 04 月号 [雑誌]

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  • 発売日: 2020/03/18
  • メディア: 雑誌