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日常茶飯事とお仕事と

乱文だが、自分で思ったことを忘れないように書き留めておく。
考えをまとめるデバイスとして絵を用いることをはじめたのは大学のころか。しかし、その下地には、小学生のころからの「落書き」があることは無視できない。したがって、この、技能と呼ぼうか、が自分にあるとすれば、それは一朝一夕に身に付けられたのではなく、20年くらいの時間をかけて熟成されたものということになる。これは誇ってよいことなのだろうか?
高校のころから、ずば抜けた連中を目の当たりに(幸い?)する機会に恵まれた。そこで感じたことは、「連中は、勉強だけではない」ということ。本当にできるやつとは、物事を学ぶことだけに特化されているわけではなく、その他のこと、全般的にずば抜けている。確かに、高校や大学の序盤のころの人間を相手にすべてを語ることはできない。だが、その時点での周囲の人間にくらべてもそう感じられるということは、あながち間違いではないのだろう*1
さて、彼らと自分の違いは?同じようにはなれないのはわかるが、近づくことはできないのか?それがずーっと課題だった。かといって、それに向け何かしらの努力をしたわけではないが(なぜなら、努力でどうこうなるものであれば、同じレベルに到達できている人間はたくさんいるはず...)。となると、違うアプローチで、彼らに近づくことができるのではないかと考えていた。しかし、今日の飲み会で、ちょっと打ち砕かれ気味。
物事をビジュアライズして理解するのに併せて、その過程で生成されるものは、そのジャンルについて深い知識をもたない人にとって理解しやすい資料として使えることについては気づいており、そのことをうまく利用することについてもこのところ、気づいていた。それは、ここでいう「彼ら」にはできないことなのではないか?と思っていたのだ。なぜなら、自分にとって、かれらは「そんなことをしなくても物事を理解できる存在」だったから。厳密には、できない、のではなく、する必要が無い、というのほうがよいか。
しかし、今日の飲み会で話したマネージャの意見は、最終的にはズレた会話になってしまったが、「彼らは今の自分がやっていることなんか、造作なくやってしまっている(それも表立って絵を書くというような作業を伴わず)のではないか?」ということ。どうなんだろう?別のアプローチで同じところを目指しているつもりが、実際は、同じコースを後から(中くらいの程度で)ついていっていただけなのでは?という疑念。
別にかまわない。人は人、自分は自分。だけど、どうなんだろう?

*1:その後、彼らがどうなっているのかについて全部トレースできているわけではないが、彼らのうち数人は海外で活躍するといった境遇にあるらしい。やはりできるやつはできるんだ。